今回は、「シドニー通信第4号」から。毎週精力的にパソコン通信で日本のPC-Vanの先生たちの掲示板に近況をアップロードしていました。1992年当時のリアルタイムの記事です。
あくまでも20年前の状況であって、今のシドニー日本人学校の様子ではありません
始めの頃の学校の印象あれこれ
何はともあれ、シドニー日本人学校の教員としての生活が始まった。
右も左もわからぬうちに、毎日お世話の先生に車で迎えに来てもらって出勤する。
教室では、何かにつけて私たちよりも大先輩の子供たちがかわいい顔をして私の来るのを待っている。
私としては何でもかんでも彼らに教わりたいくらいで、へんに卑屈な感じにおそわれたものだ。
そういう時期、はじめのみずみずしい感覚を逃すまいと必死に記録していた。
始めて子どもたちと会う始業式。
1992年の秋(日本と季節が逆)。私はシドニー日本人学校小学部3年3組の担任となった。
始業式4月13日
朝からどきどきしていた。今日は子どもたちの前で日英両語で挨拶する日だ。なぜ日英両語かと言うと、本校は世界の日本人学校の中でただ一例、現地の児童も入学している学校だからである。どちらの子どもたちにも分かるように話さなければならない。できるだけ紙など見て話したくない。短いセンテンスで、自分がいえる言葉で無理せずに挨拶しようと思う。
会場の第二アセンブリ(集会所=体育館)にいく途中、まだ日本にいるときに先輩の先生が紹介のため送ってくれたビデオで何度となく見たあの運動場が目の前にあった。実際に自分の目の前に広がっているのを見ると、あぁ、やっぱり自分はシドニーにきているのだ、と改めて感じた。
第二アセンブリに入ったら、着任式が始まるところだった。教務の先生が、日英両語で司会進行をしている。さすがに国際交流校である。新任者登壇ということで、壇上に上がった。いすがずらっとならべてあるが、それにすわれ、という。始めての経験である。いざ、自分の番になったら紙を見ることもなく結構すらすらといえた。
新学期二日目雑感 4月14日 入学式と二日目の子どもたち
二日目が過ぎた。今日は入学式だった。
日本の小学校とは違い、子どもたちは全員登校している。第2アセンブリ)に全員が入り、新入生を迎えるのだ。
新入生とは言っても中学生もいる。つい先日卒業したばかりの6年生が、今度は中学生となって入学して来るわけである。こういう学校でしか見られない光景だろう。
そういえば、インタークラス(オーストラリアの子供の学級)の新入生はいない。新入生はだれもいないのだろうか。そう思ってH先生に聞いたら、こちらの新学期は1月からなので、この1月にすでに入学しているとのことだ。なるほど。さすがに現地校が併設になっているシドニー日本人学校だ。
こういう学校でしか見られない光景と言えば、司会進行が日英両語でおこなわれ、子どもたちによる歓迎のスピーチや歌も日英両語で行われることだろう。国歌斉唱の時に、両国の国歌を歌っている様はさすがに国際的だと思った。
こういう環境の中に自然にいる子どもたちはほんとうに自然に国際感覚が身につくことだろうと思う。
二日目の子どもたちは、少しずつ私との距離を狭め始めた。ちょっとした休み時間に私のそばに来る子ども。今日はなわとびをいっしょにした。
しかし、たった一年しか一緒にいられないと言うことがよく分かっているのだろうか、子どもたちは私に対して日本におけるように熱狂的に近づいては来ない。はじめから別れを意識しているのだろう。たった数年で学校からはなれていくことを運命付けられている子どもたちである。分かる気がする。
午後から、職員会議が開かれた。会議の内容を見ると日本におけるそれとは大きく違っている部分がたくさんあった。すこし書き出してみよう。
1.プレイグランド デューティー
教員がチームを組んで、休み時間の子供の遊びを見守る体制である。
外国の地にあると言うことで、日本のような保障は受けられない。そこで、とにかく教師の手で子供の安全を守ることが必要になる。
こういうことが学校の指導体制の中に位置づけられているのだ。
日本では、勤務時間の問題が壁となり、話題にもならないだろう。
2.ボランティアについて
ここでは、三つのボランティアがある。すなわち、
「夜の日本語教室」
「野球部イエローソックスの指導」
「水泳指導」である。
日本語講座はおよそ一ヶ月に一回の割合で回って来る。
イエローソックスにいたっては毎週土曜日の8時30分から1時くらいまでだという。ただし9月から翌年3月までだが・・・。
水泳は年中だ。月に一回は休めるという。
大変な仕事だが、われわれの学校は日本人会の協力なくしては成り立たない。日本人会が設立した日本人学校ではたらくわれわれは、社員のようなものなのだ。
3.バス指導について
子どもたちは、全員バス通学である。下校時、バスは一斉にでるから、子供を残して叱ったり勉強させたりするわけにはいかない。
時間になったらすぐに待合い場所に行かなければならない。すべてのバスを送り出してからようやく一息つくのである。私は、そのバスの係になっているので、3年間離れられないとのことなので一つ一つのバスの行き先などを覚えてしまわなければならないと言う。
シドニー通信№4より
【編集後記】
着任からひと月ほどは、係の先生に送り迎えをしてもらいました。毎朝私の家に迎えにきてくれて、帰りはおくってくれるのです。
学校までは時速90kmのモナ・ベールロードやフォレスト・ウェイをぶっとばして25分くらいかかるので車なしでは通勤できません。車を買うまで毎日送り迎えをしていただきました。翌年にはそのお返しで、私が新しく来られた先生を送り迎えしました。その繰り返しがおそらく今でも行われているのではないかと思います。
日英両語のスピーチも懐かしい思い出です。
「Please be seated . 着席。 Sit Downとは言わないのだな、なるほど、be seatedか。 丁寧な言い方なんだな、」とか
「バウ」ってなんだ?「礼」のことか・・・など、おもしろいことがよくありました。
日英両語といえば、職員会や朝礼などもそうですし、提案のための文書や、なんと指導案も日英両語です。提案文書や指導案などは、まず日本語で書いておいてから事務室の先生にお願いして訳してもらっていました。
入学式にインナークラスの新入生がいないということで、当時はオーストラリアの1月新年度開始と、日本の4月新年度開始が混在していてこのようなことがおこっていましたが、今はどちらかにあわせてあるのでしょうか。
プレイグラウンド・デューティーは今では日本でも似たような状況になりつつあります。ボランティアのあり方も20年前とはかなりさまがわりしているだろうと思います。
もしご覧の方の中に現在のSJSのことをご存じの方がいらっしゃいましたらいろいろと教えてほしいなと思います。