わたしは、ちょうど妻が身重であったため単身でシドニーに来ることになった。
生まれた子供を連れて妻がシドニーにやってくるのはまだ3ヶ月もあとの話だ。
異国の地でたった一人で生活を始めなければならないことで、日本を発つ前にはずいぶん重圧感があったものだが、女性の先生方は皆一人である。だから、こちらに来た頃にはよぉ~し!という気持ちにはなっていた。
しかし、やはり家族と離れているというのはちがう。
ほかの家族のように、こちらでの生活をいっしょに始められなかった無念さは、結構糸を引いたものだった。
何はともあれシドニーでの生活が始まった。ずいぶん情けないことがいっぱいあった。
シドニー空港に降り立ってから、すぐに学校へ向かい、家族は先輩教員たちの奥さんから新住居へ案内される。
派遣教員たちはすぐに仕事だ。
怒涛のような1日目が終わってからようやく新住居へ行くことが許される。
私のお世話係のK先生から家に送っていただいた。
以下、コンピューター通信で日本に送信したシドニー通信第2号である。
4月10日
新しい家に一歩入った途端、思わず感嘆の声がでた。
私の 家。前庭がかなり広かったのですが、
この家の後ろにひ広い広い庭が。右に広いリビング・ルーム。正面に壁を隔てて台所。左に私の書斎。奥には二つの寝室。床一面にカーペットが敷き詰めてある。うらには、裏庭があり、これがまた広い。
一通り家の中を案内してもらう。
オーブンはガスだ。全部電気と聞いていたが、そうではなかった。
洗濯機や乾燥機がないのでその日はおおあわてするが、翌日裏の小屋にあることを知る。とにかくなにがどうなっているのかまだ把握できない。
K先生が帰られてからどっと心細さが押し寄せてきた。
6時に着くはずの弁当がこない。人間、腹が減っていて食うあてがないと本当に心細くなるものだと思った。
それでもパンとジャムがおいてあったのがせめてもの救いで、これで弁当がこなくても何とか明日まではもつと思った。
結局7時に持ってきた。さすがオーストラリアだ。時間通りにはなかなかならない。
弁当を食べ終って、さぁそれからが何をしたものか分からない。
とりあえず荷物をほどく。そのうちに風呂にはいる気になってはたと気づいた。
タオルがない。郵便小包の箱を見るがその中にも一枚もない。
こまった。
昨日ふろにはいっていないので入らないわけには行かない。
それで風呂桶に湯をはって入り、走り回って乾かすことにした。
風呂に入ろうとしてまた気づいた。
湯をかけようとするが洗面器がない。
このへんからだんだん心細さがましていく。
仕方がないのでそのままはいる。
確か西洋の風呂は風呂桶の中で体を洗うんだったと思ってじゃぶじゃぶ体を洗う。
そしてきづいた。
シャワーがない。
いったいどうするのだ。
しかたがないので手でお湯をすくって体にかけた。
シャワー室は別にあるのでその中に入りシャワーを出そうと思ってふと気づいた。
熱湯がでたらどうしよう、逆に冷たすぎる水がでたらどうしよう。
シャワーの栓を開ける気がしなくなり、そのまま風呂をでた。
いったいこっちの人たちはこんな不便な風呂になんではいるのかと思った。
ソファに座ってほっと一息ついているうちに寝てしまった。
シドニー通信№2より
シドニーで生活を始めるようになり、最初はわからないことばかりだった。
まず、家をくまなく見て回った。右も左もわからないと言うことは本当に不安なものだ。
家自体は広くてきれいなのだが(前の家に比べてである。後で追々わかってくるのだが、この家は全派遣教員中一番狭くて古い家なのだった)、
車庫の中がどうも薄気味悪い。
車庫をあけて中に入るとそのまま縁の下なのである。
奥の方に、崩れ落ちた煉瓦の「遺構」がぼんやりと見える。
それこそ妖怪がぞろぞろと地中からはいあがってきてもおかしくない様子。
夜は、部屋の電気をぜんぶつけて寝たものだ。あぁ、情けない。
それでも、ジュライホリデーの頃には、完全に真っ暗になっていないとぐっすり寝られなくなっていた。こちらの夜は、日本と違って暗さをじゃまするうるさい街の照明が少ないため、真っ暗にして寝られるのだ。
着いた翌日に、お世話のK先生が近くのショッピングセンターに生活必需品を買いにつれていってくれた。
ごみ箱やほうき、トイレットペーパー、ティッシュなどがやたら宝物に見えた。
店を一通り見て回って、生活に必要なものは何でもそろうことがわかってほっとした。
必要なものがお金を出せば手にはいるということ、そして、自分が必要としているときにそれが自由に行えるということはどんなに幸せなことだろうか。
必要なものを必要なときに手にいれられることができるようになることをもって、初めて安心感を得ることができるものだとしみじみ思った。世の中には、そうでないところがたくさんあるのだ。
夕方空を見た。
半月だった。
日本で見る半月とは左右逆だった。
屋根のちょうど真上に十字架の形をした星座が見えた。
「あれが南十字星です。」
オリオン座は逆立ちしていた。
こうしてわたしのシドニーでの3年間の生活が始まった。
裏の庭です。子どもがサッカーができるくらいの広さがありました。
編集後記
いよいよ家に入りました。
外国の煉瓦積みの古い家です。
もうなんとも気味が悪いのです。
ゾンビによくに合う感じの家なんです。
一体誰がどんな生活をこの家で送っていたのか。
もう心細くてたまりませんでした。
この家で私は、この日から2年間クラスことになるのでした。
なお、ここにあげた写真は、前回の出版当時のものではなく、今回あげたものです。
ここには書いてありませんが、弁当は日本人経営のお弁当屋さん。
学校へも配達してくれたので、妻が来るまでの間ずいぶんお世話になりました。
弁当を持ってきたのは現地の「外人 」。
外人は自分の方であることも忘れて、私は、弁当が届くまでの間、ひたすら「外人怖い 」と思いながらどきどきしてまっていました。
Fourteen dollarsが14なのか、40なのかもわからずに20ドル札2枚出したほど英語がわからない、そんな状況からすべてが始まったのでした。
それでは、第3号で・・。
左はよく見られるシドニーの風景ですが、ほとんどは右のような森がどこまでもつづく風景。山がありません。