1 〜1992年4月 Sydney到着〜

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シドニー通信№1 1992年4月10日より

朝、4時半に目が覚めた。左側の窓は、オレンジ色に輝いている。オーストラリア上空の朝焼けだ。機内の時計を見ると、

「TKY 4:24 SYD 5:24」と書いてある。

日本とシドニーはちょうど一時間の時差がある。時計やビデオの時間を一時間進めた。

いよいよシドニーに着く。

2年前(1990年)にシドニーから帰ってきた先輩の先生が「飛行機に乗ってしまえば後はこっちのものだよ」とおっしゃっていたのが思い起こされる。

実際この3カ月と言うもの本当に大変だった。

  • 国際免許の取得、
  • オーストラリア検診、
  • 引っ越し荷物運送業者の決定、
  • 引っ越し荷物の梱包、
  • 引っ越し、
  • 生活必需品の購入などにくわえて、
  • 挨拶状書面の作成、
  • 成績処理などの実務、

さらに、単身赴任と言うことからくる不安や焦燥感などの心理的プレッシャーとの戦いなど。そういった中で、自分には本当に行きの飛行機に乗る時間がくるのだろうか、と思いやられていたものだ。

そういうことを思い起こしながら、じっと窓の外を見ていた。右の窓にはオーストラリア大陸がどこまでもつづいている。今は、不安や家族をおいてきた寂しさなどまったくない。

下に見える景色が段々近づき、窓を過ぎ去るスピードも速くなってきた。緑の木々の間に茶色の屋根がぽつりぽつりと見える。緑と茶色とで統一されているので、とても美しい。ふと左を見ると、シドニータワーとハーバーブリッジが見える。いよいよシドニーに降り立つわけだ。

タラップを下りた途端、自分はシドニーにきたのだと言う実感がわいた。空がどこまでも青い。これがオーストラリアン・ブルーか。そういえば、オーストラリアはいま秋だから、日本の秋空と同じだ。

通関したら、日本人学校の先生達が出迎えに来てくれていた。K先生がいる。昨年赤ちゃんが生まれたと言うW先生と、ビデオをとって送ってくださったT先生が「Welcome To Sydney Japanese School」と書かれた横断幕を持って立っている。幹事長のS先生の顔も見える。ひげのT先生もいる。紅一点H先生がいる。M先生、Y先生の顔も見える。初めて会うのに懐かしい顔ばかりだ。

バスに乗り込み、シドニー空港を離れ、シドニー市街を抜け、日本人学校のあるテリー・ヒルズに向かう。

シドニー市街が段々近づいてくる。

教員の家族はみなはしゃいでいる。

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私も、やっとついたという安堵感と解放感とでこころがはずんでいた。

センター・ポイントにはいると歓声が一段と上がった。左に高くシドニー・タワーがそびえ、右にはシドニーをの象徴のようなオペラハウスが白く輝いているのだ。

私は、これがシドニーかという思いを噛みしめよう、噛みしめようとしていた。・・・・・

シドニー通信№192/4/10より

 

 

到着した日、コンピューター通信(まだインターネットはありません)によって日本の教師たちに向けて送った通信第1報には上のように書かれていた。

「シドニー通信」と題したその通信は、海外に派遣された一教員がその目で見、体験したことをリアルタイムで日本の教師たちに知ってもらおう、日豪の理解への橋渡し役になろうという、いささか思い切った決心から始めたもので、この3年間(1995年3月まで)に70号を数えるにいたった。

そのほか、学級通信や日本の同僚たちに定期的に書き送ったレポートなどを加えると、かなりの分量の記録をしてきたことになる。

3年間の勤務を終えていよいよ帰国するにあたってこれらの文章を読み返すと、多くの思い出もさることながら不思議なことがある。

英語嫌いの全くの日本人が、いつのまにか英語好きの、そして以前以上に「日本人」となって帰国しようとしているのだ。

いったい私の中の何が変わっていったのだろうか。

これらの文章をまとめることで、それらについて自分なりの解答を出すことを試みたいと考えた。

なお、文中「引用」にしているところは私が書き記してきた記録をそのまま引用している箇所である。日付は当時のままにしてある。

【編集後期】

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よく庭に飛んできていたワライカワセミ 「クッカバラ」

こんにちは!

「シドニー日本人学校の先生をしてきた!」第1号をお届けします。

これはすでに20数年前に書かれたていた文章です。

この中に「コンピューター通信」という言葉が出てきます。

コンピューター通信そのものについては別稿に譲るとして、その通信の仕方については、インターネットもない、Windowsマシンもない時代どのようにしたのか若い読者にはよくわからないと思いますので簡単に説明します。

 

私は、98note(NECのノート型パソコン。MS-DOSで動くPCです。まだWindowsは登場していません。)とモデム、そしてモジュラーの代わりに電話機にとりつける「音響カプラ」という3つの機械を手荷物で持ってきていたのです。

音響カプラというのは、音声化されたテキスト情報をそのまま電話の送信口から相手のコンピューターに伝えるものです。

PCのテキスト情報をまずModemが音に変えます。Faxなどで聞こえる「ピーピーガガー」というあれです。

日本でも10年前ちょっと前までダイヤルアップでインターネットにつなげていた頃は、プロバイダにつなげるときにまずこの音が聞こえてからつながったものです。

モジュラージャックがあればModemから直接壁のモジュラーにさしこめばいいのですが、オーストラリアでは日本のモジュラージャックと形状が違うと聞いていたので、送話器に直接音を聴かせるためのカプラと呼ばれる機械を買っていっていたのです。

さて、98noteにモデムをつなぎ、そこから音響カプラをのばして電話機にくくりつけ、通信ソフトから日本のPC-VANに電話をかけます。

まともに日本に国際電話をかけるととんでもない代金になるので、私はTimepassというサービスに入り、まずそこにつなげてから日本にかけるという方法をとっていました。

これで確か3分200円くらいの電話料が80円くらいになっていたんじゃないかと思いますがよく覚えていません。

PC-VANにつながったら、パスワードなどを打ち込んでログインします。

そうしてそこから教師たちのコミュニティに入って掲示板に書き込んでいたのでした。

今の便利なインターネット環境とは雲泥の差です。

それなりによくやったもんだと思います。

なにせ、うまく繋げられなかった時のために、出発前、そのコミュニティで最後に書き込んだ私の言葉は「それでは、もしうまくつなげられなかったら3年後にまたお会いしましょう」でしたから。

それでは次号で。

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