前回は、50歳からの情報発信の内容として行いやすいのは、学びのプロセスを配信することだとお話しました。
今回はすこし切り口を変えて、「昔語り」をすることに価値があるというお話です。
疎まれない、望まれる昔話とは
昔語りというと,若い人からは疎まれそうですね。
すぐに「わしらの若い頃はこうしたもんじゃ。それに比べて近頃の若いもんは」とか,言いそうじゃないですか。
一説によると,2000年以上前のパピルスだったか,バビロニアの石版だったかにそんな言葉が見つかったそうです。
昔から年寄は昔語りをして疎まれてきたもんだということがよくわかります。
ところが、テレビがない頃は,子どもたちがいろりなんかの周りに集まって、「じいちゃん、昔語りしてけろー」とせがむというようなことは一般的だったんですよね。
テレビもラジオもない、娯楽が少ない時代には,じいちゃんばあちゃんの話がエンタメだったわけです。
50歳からの情報発信でいうところの「昔語り」とは、このエンタメなのです。
それは聞き手から、求められるお話のことです。
決して自分の武勇伝とか,上から目線で見下した話をするのではなく,読者,視聴者が喜ぶ話をする,ということです。
かといって若いものに気に入られようと迎合するのでもありません。
迎合するとかえって聞きたくなくなるものです。
若者の間で流行っている言葉をやたらと使ったり、仕入れた話題をしたりするのは。その場にいて気まずいものですからね。
あくまでも聞き手から選ばれる話ということです。
それはどのような話でしょうか。
それは、実際に自分が見聞きした事実を語ることです。
何らかのフィルターをかけて美化したり教訓的にしたりするのではなく、あくまでも事実とリアルな経験を語るのです。
例えば、今2025年の大阪関西万博が話題になっていますが,1970年の大阪万博のことをリアルに知っている人はどんどん少なくなっています。
そんな今、50年前の当時、子どもだった私がそこで何を見たのか、どんな思いで何をしたのかそのようなリアルな経験を語るのです。
70年の大阪万博は確かに動画や写真で記録されてはいますが、それはあくまでも客観資料です。
人の思いが介在しないので、現代の視聴者が、現代の常識をもとにそれを解釈しなければなりません。
後世の人が客観資料を見て解釈をすると、そこにはどうしてもズレがでてきてしまいます。
また、それがいかにエキサイティングなものだったのかというような感情は伝わりません。
しかし、当時10歳の子どもだった私がわくわくしながらEXPO70に足を運び、何を見、どんなことを感じたのかを語って残しておけば、それは一人の人間の血の通った経験として大きな価値を持つのです。
これらを、テキストでも、音声でも、画像でもなんでもいいので、発信して残しておきましょう。
決して、そこにいる人を捕まえてきて「これからわしがありがたい話をしてやろう。わしが10歳だった頃、EXPO70で見たリアルな経験談じゃ」などとやるのではありません。
ブログや本などのテキスト、音声、動画などでおいておくのです。
それが蓄積になり、必要なタイミングで必要な人に届きます。
それはとてもありがたい情報になるはずです。
私の昔語りの例
私は、自分の10年ブログ「知的生活ネットワーク」に「黎明期」というカテゴリーをつくっています。
そこでは、パソコン黎明期にはじめてパソコンやワープロを触った私のリアルな出来事と私の感情、考えを残しています。
例えば、当時の私達は、テレビの画面は「見ること」しかできないものでした。
テレビの画面は放送局が流してきた電波を映すものであって、私達はそれを見るだけしかできなかったのです。
私達が何らかの働きかけをして画面に映ったものに影響を与えることなど考えもしませんでした。
ところが1979年頃にテレビゲームが登場したとき、私は度肝を抜かれたのです。
手元のコントローラーを動かせば、画面のカーソルが動く。
これがどれほどの驚きだったのかは。後世の人にはわからないでしょう。
直接自分の手で動かすわけでもないのに、なぜ手元のコントローラーのキーを動かすと、画面が動くのか意味がわかりませんでした。
本当に、どう考えてもわからなかったのです。
見たことも聴いたこともないことが目の前におこり、混乱したのです。
考えてもわからないので、とりあえずそれを受け入れて遊びました。
どうでしょう。
コントローラーを動かせばカーソルが動くのが当たり前という時代に育った人には、コントローラーを動かすとカーソルが動くということに腰が抜けるほどびっくりした人たちがいたのだということなど思いもしないでしょう?
それが伝わることが、私が黎明期を書く価値なんです。
もうひとつ例に取りましょう。
それから数年ほど立ち、1984年頃、私の職場にワープロがやってきました。。
おそるおそるキーボードのキーを押すと、画面に文字が並んでいきます。
ボタンを押すと漢字に変換されてびっくり。
それが印字されてびっくり。
手に届かない仮想の世界から、実物としての印刷物が顕現化したのです。
なんということでしょう。
しかし、すでに受け入れ方をしっていたので、その便利さをそのまま享受しました。
どうですか?
80年代中期にはじめてワープロを触った人は、そんな驚きを持ってワープロと対峙していたのです。
さらに例を加えましょう。
そんな私がずっと受け入れがたかったのが、フロッピーディスクです。
あの円盤に、なんで文字が保存されているのか、
どう考えてもわかりません。
レコードなら、物理的に溝が切ってあり、針がその溝をなぞる時に発する音を拡声して音楽になるというのは原理的に理解できます。
しかし、フロッピーは、文字を刻み込むような物理的な穴なりがあいているわけではありません。
いったいどんな原理で文字を保存しているのかさっぱりわからないのです。
おまけに、物理的に溝を切ったレコードと違って、フロッピーディスクは、情報を書き換えることだってできるのです。
これはもう、降参です。
なにかわからないけど、受け入れるしかありません。
これを受け入れられずに、わけがわからない機械だとして敬遠した人たちは、その後30年以上続く情報イノベーションの波状攻撃に遅れを取り続けることになりました。
しかし、わけがわからないけど、こんなことができるものだと受け入れることができた私は、その後も新しいものが現れるたびに「そんなもんだ」と受け入れ続けることができました。
いかがでしょう。
80年代中期に、パソコンや通信を積極的に取り入れて仕事や生活をアップデートしていこうとする一群と、理解できないことは受け入れず、昔のやり方を固持し続けた人たちとに分かれた、そのリアルな現場をみていたのです。
私は、以上のような話をいくつもブログに置いています。
こんな昔語りがなんの役に立つ?
「それがなんの役に立つんだ?」と思われるかもしれませんが、必要としている人にはとても得難い情報のはずです。
たとえば、パソコンの黎明期の本を書こうとしている人にとっては、第一級のリアルタイム記録として貴重な情報となるでしょう。
事実だけでなく、それに出会った人は何を思い、どのようにそれを受け入れていったのかまでその本に記述することができるからです。
現に、私はこの「黎明期」というカテゴリにいくつもの当時の昔語りの記事をおいておいたおかげで、ある有名作家さんの目に止まり、私のブログを紹介していただいたことがあります。
そして、その方の出版された本に私の昔語りの記事の情報が使われ、参考文献として巻末に掲載されました。
このように、昔語りを自分のメディアに蓄積しておくことは価値を持つのです。
そのような昔語りは、50歳以上の人だからこそ、発信できる内容なのです。
前回お話した「学びのプロセス」と、今回の「昔語り」。
これらをぜひ発信してみてください。
おそらく次々と価値ある情報を発信し続けることができると思います。
その先にまっているのは、それらのコンテンツを通して人の役に立てるというだけでなく、
まとめて本にしたり、
リアルな講演会で話をする機会を得られたりなど、
自分の生活をより広げたり深めたりすることができるようになりますよ。
ブログでも、メルマガでも、本でも、音声配信でも、YouTubeでもなんでもいいです。
ぜひ始めてみてください。